2006/10/09

月の話

闇の上に月が浮かび、夜の底に淡い光を沈殿させている。

その光の沈殿のなかを歩きながら、僕は顔をあげて月を眺めた。澄んだ夜空から僕を見つめる月の光は、冷ややかなようでもあり、しかしやさしく僕を包み込むようでもある。

こんな秋の夜、僕は必ずある既視感におそわれる。どんなに自分の記憶を詳細に調べてみてもありえないはずの経験を、すなわち、人に愛されるという経験を、僕は思い出すのだ。僕は月に問うてみた。この、僕の記憶ではありえないはずの記憶はいったい何なのか、と。すると、月が答えた。

「それはもう一人のお前の経験だ」

と。そうして僕は、彼女に当然の疑問を投げ返す。

「もう一人の自分とは誰なのか」

と。また彼女が答える。

「それはお前の双子の兄の記憶である」

と。さらに続けて彼女が語る。

「双子の兄の記憶が、お前の記憶に混入しているのだ」

と。そうして彼女は地上にぼんやりとした光を降らせながら、だいたい次のように物語った。

日本のある地方都市に、彼、すなわち僕の双子の兄は生活している。体格、顔立ち、声、指の長さ、その他ほとんどあらゆる身体的特徴は僕と酷似している。だが、彼と僕とは決定的に異なる点がひとつあった。それは、彼が人を愛することのできない男だということ。

神は、僕と兄の魂を母の胎内に吹き込むときに、手違いを犯したのだった。僕に本来与えるべきであった「人に愛される能力」を兄に与えてしまい、逆に、兄に与えるべきであった「人を愛する能力」を僕の方に与えてしまったのだ。そうして、僕は人を愛することはできても、人に愛されることのできない人間となり、兄の方は人に愛されることはあっても、人を愛することのできない人間になってしまった。

彼は、すなわち兄は、ある晩、職場の女性に誘われ食事にゆくことになった。週末を控えたその日、彼は他にこれといった用事もないので付き合うことにした。

仕事が終わり、彼は彼女と連れ立ってオフィスを出る。その二人の背中に嫉妬のまなざしを向ける女性がそのオフィスのなかだけでも3人はいるのだが、彼はそのことに気づく由もない。駐車場までくると、彼は何の打算もなく彼女のために助手席のドアを開けた。

めまぐるしく過ぎ去ってゆくネオンの光を顔に反射させて、彼はまっすぐ前を見て運転している。彼女はときおり彼の顔をさりげなく覗き込んでみる。彼はそれにも気づかない。ただ、彼女の方からふられる何気ない会話に答えるだけであった。ときおり乾いた声で笑ったり、立て続けに話をすることもあったのだが、どこか心の底は違う方を向いている、という印象がある。彼はそんな倦怠感を発しいていた。そうして、多くの女性がそれに魅かれるのであった。

イタリアンレストランの店内で、彼女がパスタをフォークに巻きながら、

「鈴木さんって、おつきあいしている女性はいるんですか?」

と彼に質問した。鈴木とは、彼の名前である。

「いや、僕は女の人とつきあったことがないんですよ」
「え!ほんとうですか!」

一瞬、店内の客が二人の方を振り向いた。それほど彼女の驚きの声は大きかった。

「女の子たちで、鈴木さんのファン、多いんですよ」
「まさか、冗談でしょ」

乾いた声で笑う彼。彼女の言葉を真に受けていない。嬉しい、という感情もなく、かといって彼女の言葉を疑うでもなく、彼にとってそれは興味の対象から外れたものでしかなかった。つまりは、どうでもよかった。

彼はそれまでの人生で無数の異性に愛されてきた。小学校、中学校、高校、大学、そうして職場でも。それにも関わらず、彼は一度として彼女たちの気持ちに気づいたことがなかった。もちろん、女性の方から告白されたことも一度や二度ではない。しかしその度に彼はなるべく相手を傷つけない言葉を用いて断ってきた。

食事を終え、二人はふたたび車に乗り込んだ。近くの駅まででいいと遠慮する彼女に、彼は自宅まで送ってゆくと言った。空にはぽっかりと月が浮かび、フロントガラス越しに二人を照らしている。

「鈴木さん、どうして彼女つくらないんですか?こんなに女の子にモテるのに。何か嫌な思い出でもあるんですか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどね」

彼の顔が曇る。こういう話は苦手なのだ。なぜ恋人をつくらないのかと問われると途端に返す言葉につまってしまう。彼には、人を愛する、ということが理解できないのだった。もちろん、助手席に座っている彼女の気持ちにも気づけるはずがなかった。

「あ、すみません。変なこと訊いちゃって」

そうして仕事の話や上司の愛人のうわさ話をしてお茶を濁しているあいだに、車は彼女のマンションの前に到着した。

「じゃ、また月曜日に会社で」
「はい」

しかし彼女はシートベルトを外したあと、助手席に座ったまま動こうとしなかった。

「どうしたの?気分でもわるい?」

彼は彼女の体調を気遣って、心配そうな顔で彼女に問う。すると、彼女は彼の顔をまっすぐに見つめて言った。

「あたし、鈴木さんのことが好きなんです」

その瞬間、彼の心に暗い影が落ちた。むかしから何度も繰り返された、不幸な出来事。それがまたしても彼を襲ったのだ。

彼は思う。どうしてこの女性は自分などに特別の好意を寄せるのか、と。そうして、これも幾度となく行われたことだが、彼は即座に、しかし最大限彼女を傷つけないような拒絶の言葉を探した。けれど、彼女は彼の言葉を待つまでもなく、彼の表情から拒絶を感じ取り、蝶のようにひらりと車から出て駆けていってしまった。

彼には、不可解な罪悪感だけが残された。自分は、彼女の愛に応えることができない。いや、誰からの愛にも応えることができない。そうして、人に愛される度に人を傷つけなければならない。これは、自分が悪いのであろうか?自分の罪なのであろうか?彼はハンドルに額を押し付けて、終わりのない自問自答に苦しんだ。そうして、もし自分が人を愛することができたなら、これほど人を傷つけることなく、またこのような罪悪感に苛まれることもなかったのに、と神を呪った。

これが、月が僕に語った双子の兄の話である。

「お前は人に愛されることがない変わりに、この兄の記憶が侵入してきて、それを自らの記憶と混同しているのだ」

月は語る。そうして、僕はとうぜんの疑問を彼女に投げ返した。

「僕はまだ21だ。大学を卒業した双子の兄がいるというのは不条理ではないか?」

と。月は答えた。

「あ、すみません。人違いでした」

と。おっちょこちょいな月である。

2006/11/02

秋と魔王

秋という季節は、人の心が不安定になるのだと思う。

暑かった夏もいつの間にか過ぎ去り、冬の寒さが忍び寄ってくる秋。紅や黄に色づいた樹々の葉と早すぎる夕暮れが感傷的な気分を呼び起こす。すると人は心のバランスを崩し、ありえない行動をしたり非常識な思考に陥ったりするのだ。

例えばこの頃、僕のマンションの住民が明らかに狂っている。以前から水道管が破裂したり断水が丸一日続いたりと、いちばん大事な設備が狂っているマンションだったのだけれど、ここへ来て住民までが狂いはじめ、ここは完全に狂気のマンションと化したわけだ。

その兆候は深夜に現れるのだけれど、窓を開けたまま午前一時二時まで騒いでいる輩の多いこと多いこと。こちらはぐっすり眠りたいのに奴らの声で眠れないほどです。あとは喧嘩の声。これがもうひどくて、どう考えてもヤクザだとしか思えないドスの利いた怒鳴る声が聞こえてくるのです。さらに廊下では何度もドアを乱暴に開けたり閉めたりする音が聞こえてきたり、ドアを蹴る「ガーン!」という音が聞こえてきたりと、「ここはそういう病院だったのかしら?」と思わざるを得ない惨状なのです。

秋は、人の心を狂わせる。

きっと季節の変わり目で精神的に不安定になっているからだと思うのですが、人の道徳といいますか倫理といいますか、そういうものが壊れている気がする。普通なら抑止されるはずの悪の面がにじみ出てきてしまっているように感じるのです。そう、普段、心の底に抑圧されている悪が這い出てきてしまっているのです。

ここで当然問題になるのが、「どうしてこの世界には魔王がいないのか?」ということです。

悪の権化であり、恐怖と暴力で世界を支配する魔王。どうしてその魔王がこの世の中にはいないのか?悪があるなら、その根源である魔王がいて、社会を支配していればいいじゃないか。そして善良な民衆は魔王とその配下のモンスターに恐怖して暮らしていればいじゃないか。そしたら僕が立ち上がって、その魔王を討伐するための冒険に出ようじゃないか!

魔王を倒し、世界に平和をもたらすために旅に出た僕はまず仲間集めからはじめねばなりません。当然向かう先は街の居酒屋です。そこにはきっと、同じ志を持った仲間がいるはず。

いました。店内に一人で座っている女戦士が。彼女は大学で同じゼミのエツコ。いつもは黒髪で化粧もしておらず、目立たない感じの大人しめの子だったのですが、世界が恐怖に包まれた今、彼女もまた正義感を奮い立たせ、ペンを剣に持ち替えて魔王討伐に意欲を燃やしているようです。

「エツコ、俺といっしょにシジョウの街にいかないか?とりあえずそこで情報を集めようと思うんだ」
「いいよ」

エツコが仲間になった。

シジョウというのは欲望渦巻く歓楽街で、さまざまな誘惑も多いのですが、情報収集にはもってこいの街です。とりあえずそこで情報収集をするために僕たちはこの街を後にします。

もちろんまだストーリーも序盤ですのでチョコボや飛空艇もなく、徒歩で向かうことになります。まだレベルが一桁の僕とエツコはスライムにさえ二三ターンを費やしつつパラララッパッパッパーとレベルを上げながらシジョウをめざします。

レベルが十二に達した頃、倒したスライムにストローを刺し、ウィダーインゼリー感覚でチューチュー吸っていた僕とエツコはシジョウに到着。とりあえず貯まったGで装備をすべて鋼のものに買い替えます。そして街中で情報収集。

「なあ、『ハニー・ビー』って知ってるか?いちど行ってみたいんだよな」
「この頃『ハニー・ビー』が旅人に人気らしいんじゃが、いったいどんな店なんじゃろうなあ」
「友達が何人も『ハニー・ビー』に働きに行ってるんだ」

とまあ、どう考えてもその『ハニー・ビー』に行けという流れとなり、僕とエツコはごたごたした電飾で飾られた夜の『ハニー・ビー』へと向かいます。入り口にはスーツに金髪の男がいて、道行く男たちに「お兄さーん、いい娘が揃ってるよー!」と声をかけています。

「グレエ、ほんとうに入るの?」

店のいかがわしい雰囲気に抵抗を感じたエツコが僕の腕を掴んで言います。

「もちろん。ここには、きっと何かある気がするんだ」

勇ましく店に入ろうとする僕。

「じゃあ、あたしは外で待ってるね」
「ああ」

エツコを外に残し、入店。店員に案内され個室に通されました。非常にファンシーに飾られた部屋はまるで女の子のプライベートな部屋のようでとても興奮します。あ、いえ、その、とにかくそんな感じなわけだ。そうして辺りをきょろきょろしていると一人のメイド姿の女の子がドアを開けて入ってきました。

「こんにちは、ユリといいます!今夜はあたしがご主人様のために‥‥‥グ、グレエ!」

そう、その子は大学の語学の授業でいっしょだったユリだったのです。いったいなぜユリがこんな店に。

「ユリ、どうして君がこんな店で働いているんだ?この店は、いったい何なんだ?」
「別に、あたしがどんなトコで働いてようと勝手じゃない」
「勝手じゃない!きっと何か事情があるんだろう?話してくれ」
「実はあたし‥‥‥」

とつとつと話しはじめるユリ。要約すると、父親がリストラされ、それで生活が困難となり、家計を支えるために割のいい仕事を探していたのだという。そんなとき声をかけてきたのが『ハニー・ビー』の店長だった。もちろん、純真な乙女であったユリははじめその誘いを断ったが、気がついたらこの個室で働いていたのだという。その経緯は自分でも覚えていないとのことだ。

「今でも辞めたいとは思っているけれど、辞めたらここで働いていたことを公表すると脅されていているの」

そのとき、ドアが開いて三人の男が現れる。

「ユリ、それは他言してはならないと言ったはず。店の情報を漏らしたらどうなるか分かっているな?」

とかなんとか、真ん中の、おそらく店長であろうスーツが言います。僕はユリが無理矢理こんな場所で働かされていたことにたいそうご立腹ですからこう言い返します。

「お前こそ、今すぐユリを自由にしないとただじゃおかないぞ!」
「ふはははは!貴様ごときが俺にかなうと思っているのか?秘密を知ってしまったお前も、今すぐ葬り去ってくれるわ!」

スーツが破れ、みるみる人間の姿からモンスターへと変化してゆく三人の男たち。僕も剣を抜いて臨戦態勢へ。そこで外にいたはずのエツコが駆けつけてきます。

「グレエ!こいつらは‥‥‥」
「エツコ、来たのか。こいつらは人間じゃない。二人で片付けるぞ!」
「ええ!」

それでボス戦に突入。ザコキャラ相手にレベルを上げた成果があり、薬草でHPを回復させつつ相手のHPも削って行きます。およそ十ターン目、店員ABを倒し、店長のHPも底をつこうとしたその時、

「なかなかやるな。こいつを喰らえ!」

奴の体全体が、ぼんやりとした赤い光で包まれ、そして何か呪文をつぶやいた瞬間、その光が僕たちの方に飛んできてぶつかり、僕とエツコの意識が朦朧としてしまいます。

「ふはははは!こいつを喰らった奴はしばらくの間俺の言いなりになるのだ!さあ、仲間同士で殺し合ってもらおうか」

(うぐっ!ちくしょう!体の自由がきかない。ユリを操ったのも、この力なのか‥‥‥)

薄れゆく意識のなか、エツコに斬りつけようとした僕の目の前に突如ある男が現れます。男の体中を緑色の光が包み込み、やはり何か呪文をつぶやくとその光は僕とエツコの方に飛んできて、朦朧としていた意識が戻ってきました。

「グレエ!エツコ!今だ、奴にとどめを!」

体を自由に動かせるようになった僕とエツコは店長に会心の一撃を喰らわします。

「ぐあああああ!」

倒れるボス。レベルが一気に二アップしました。しかしそんなことより気になるのは助けに入ってきた謎の男の存在。そして店長と謎の男がつぶやいた呪文です。

「危ないところだったね」

そう声をかける謎の男を見てみると、だぼだぼのシャツにもしゃもしゃの頭髪、そして丸いメガネをかけた中年の男性でした。そして、それは大学の英語の授業でお世話になっているナカムラ先生だったのです。

「さっきあの化け物が使ったのも僕が使ったのも、どちらも古代に存在していた『魔法』です。まさかあんな下っ端までが『魔法』を使用できるなんて」

先生の話によると、約七千年前の人類は魔法を自由自在に使用することができたらしく、先ほど僕とエツコの自由を奪った力とそれを解除した先生の力、それが魔法だというのです。魔法などファンタジーの世界だけの存在だと思っていた僕とエツコ、それにユリは愕然とします。

「しかし先生、なぜ先生は魔法を使えるんですか?それに、さっきの怪物も‥‥‥。もっと詳しく教えてください」
「ええ、いいでしょう。では明日、私の研究室に来てください。出来る限り、この世界に起きていることを詳しくお話しします」
「それと、先生」ためらいつつ、エツコ。「なんでここにいらっしゃったんですか?」
「え?いや、あはははは!それ以上聞くと英語の単位落とすよ?」

翌日、キャンパスのある建物の地下にあるナカムラ先生の研究室を僕とエツコで訪れます。

「僕は二十年前からこの大学で古英語の研究をしているのですが、五年ほど前イギリスにいたときに、これまで知られていなかった古代魔法文明についての文献を見つけたのです」

先生は大学で表向きに言語学研究をする傍ら、独自に魔法の存在と古代文明について研究を進めていたらしく、僕たちに知っているだけのことを話してくれました。それによると、古代人類は魔法の力によって現代以上に繁栄していたが、その力の使い方を誤って自ら破滅してしまったらしいのです。そしてわずかな文献に記された以外のことはやがて忘れられ、あるいは伝説となり、魔法の存在は人類の記憶から消えて行ったのだという。しかし魔王の出現と前後し、モンスターのなかに魔法を扱えるものが出てきたらしい。

「モンスターは人間の悪の心から生じ、魔法も、その多くは邪悪な心を変換させたもの。そして魔王は、いわば悪の心の結晶なのです。人類は今、自らが生み出した悪の心によって支配されようとしている」
「先生、僕は魔王を倒して、またこの世界に平和を取り戻したいんです!」
「しかし魔王は悪そのもので、どんなモンスターよりも強力な暗黒魔法を使うことができる。その暗黒魔法の前では、人間は蟻にも等しい」
「でも、僕はこのまま魔王の力の前に屈することなんてできない!」
「あたしも、平和な世界を取り戻したい。モンスターのいない、安心して暮らせる街を取り戻したいの」
「そうか‥‥‥」

不安な表情を浮かべるナカムラ先生。英語の授業では決して見せたことのない表情だ。だが、僕には分かっている。きっと、教え子が危険に巻き込まれてゆくのが不安なのだろう。でも、僕は魔王に屈するわけにはいかない!

「先生、その暗黒魔法に対抗できる方法は、何かないんですか?」
「お願いします先生。教えてください」
「‥‥‥君たちの気持ちは、よく分かった。さっき話したように、魔法はそのほとんどが悪の心より生じたものだ。しかし、中には人間の善の心から生じた魔法、すなわち白魔法というものが存在するらしいのだ。強大な力を持った白魔法であれば、あるいは魔王の暗黒魔法を封じることができるかもしれない」
「白魔法を使えるものが、今の世界にいるんですか?」
「昨日私が君たちにかけたのも実は白魔法だ。しかし魔王に対抗するためにはその何千倍、何万倍もの力が必要だ。だが私にはもちろんそんな力はないし、それほどの力を持った人間がいるのかどうかもわからない」
「じゃあどうしたら‥‥‥」

途方に暮れる僕とエツコ。魔王から世界を救うことはできないのか?平和なキャンパスで、再びナカムラ先生の英語の授業を受けることはできないのか?

「ケンブリッジに、白魔法を専門に研究している友人がいるんだ。彼なら、あるいは何か知っているかもしれない。私から君たちのことを話しておくから、尋ねてみなさい」
「先生!」
「ありがとう先生!」
「グレエ、エツコ。きっと無事に帰ってくるんだよ」
「はい!」
「そうだ。それと、君たちに僕の助手を同行させよう。キノシタくん!」

先生が呼ぶと、これもまた先生のようなだぼだぼの服を着た男が部屋に入ってきました。

「彼は三年前から僕といっしょに研究をしているキノシタくんだ。君たちの助けになってくれるだろう」

そうして先生の研究室を出た僕とエツコとキノシタの三人は白魔法の謎を解き明かすべく、イギリスのケンブリッジをめざします。迫り来るモンスター、数々の試練、新たな仲間との出会い、そして戦友との別離。だんだん狂気に包まれてゆく世界のなかを、僕たちは世界の平和だけを願い、魔王討伐のために冒険の旅に出るのです。その旅はあまりに長いため、ここではほんの序盤しかお話できなかったのが残念でなりません。

でまあ、自分でも信じがたいほどに話が逸脱してしまって何を言いたいのか分からなくなったのですが、そんな僕はマンションの住民以上に狂っているようです。

秋は、人の心を狂わせる。

2006/11/25

秋風記

あいつと過ごした最後の夜のことは、きっと生涯忘れられないだろう。

俺はそのとき大学の二回生で、語学の授業で知り合った良子とつきあっていた。小柄で華奢な体つきで、背は俺の肩までしかなかった。授業の仲間たちでだれかの部屋におしかけて、コンビニで買った酒を飲んで深夜まで話し込んだり、たまには休日に大学のある京都市内の寺を観光にいったりして、そんなことをしているうちに、俺は良子に魅かれるようになっていった。

はじめてのデートは、映画だった。俺はそれまで恋人なんてできたことがなくて、デートの仕方も分からなかったから、いつも男友達といってた映画館に良子を連れていったんだ。新京極の通りを並んで歩くだけで緊張してたっけ‥‥‥。

俺と良子。どこにでもいるカップルだった。普通の大学生で、普通に勉強して、そうして普通に恋をしていた。まさかあんなことになるなんて、その頃の俺にはまったく予想できなかった。

付き合いはじめて二ヶ月、十一月下旬の出来事だった。その日の講義を終えた俺は良子といっしょに帰ろうと思い、携帯で連絡を取って正門で待ち合わせをした。暖房のきいた教室を出ると、吹き付ける風が冷たかった。もう十二月になるんだな。紅葉も、気がついたら散っていて、キャンパスに赤茶色の絨毯を敷いている。

首を縮めながら正門にいってみると、良子は先に来ていた。

「お待たせ。寒いね」
「うん。もう完璧冬だね」

日が暮れかけていた。空には薄く光を宿した重苦しい雲が広がっていた。あと一時間もしないうちに外は真っ暗になるだろう。そしたら道に敷き詰められた葉っぱも色を失ってしまうのだろう。冬の夜の闇は、他の季節のそれより余計に深いような気がした。でも、俺の隣には良子がいる。こいつといっしょなら、きっと、どんなに深い闇の中だって、平気で歩いて行けるだろうって思った。

「良子のマンションって、この近くだったよね?」

大学の正門から最寄りの駅への長い坂道をくだりきったところで、僕は良子に尋ねた。

「うん、それだよ」

良子は目の前にある建物を指差して言った。

「部屋、寄っていい?」
「いいけど、何もおもしろいものないよ?」
「良子がいればいいよ」
「馬鹿」

オートロックのドアを開けて、狭い階段を三階まで上る。そこから廊下をずっと歩いて、いちばん端にある部屋が良子の部屋だった。

「見られたくないもの隠すから、二分だけ待ってて」
「うん」

それからしばらくしてドアが開いて、俺は良子の部屋に入った。よく片付けられていて、まるでドラマに出てきそうな部屋。余分なものは一つもなくて、まじめな良子らしく、白い本棚には教科書や辞書が整然と並べられていた。一人で女の子の部屋に入ったのはそれがはじめてだったのに、意外と緊張はしなかった。

「夕飯、どうするか決めてる?」
「いや、決めてないけど」
「よかったら、何かかんたんなものつくるよ」
「まじで?」
「うん。何がいい?」
「えっとね、じゃあ、良子がたべたい」

すると、良子の顔が急にこわばった。俺はほんの冗談のつもりだったのだけれど、良子にはちょっときつかったのかもしれない。俺は言ってしまったことを後悔した。

「うそだよ。ごめん」

俺は笑ってごまかそうとした。

「ううん。‥‥‥いいよ」

そう言うと、良子は濡れた瞳で俺を見つめた。そうして、着ていた洋服のボタンを外し、ジーンズも、下着まですべて脱いで僕の目の前で裸になり、右手にソース、左手にマヨネーズをつかんで自分の頭上に降り注がせて仕上げにかつお節と青のりをまぶすと、

「はい。召し上がれ」

いいえ、結構です。

2006/12/05

サンタが僕にキスをしろ

ついさっき、石鹸がなくなったことに気がついたので行きつけのドラッグストアに買物にいった。師走の夜の空気が冷たくて、パーカーの上にコートを羽織ってこなかったことを後悔した。はいた息が月明かりに照らされて闇に白く浮かび上がった。

マンションの目と鼻の先にあるドラッグストア。自動ドアをくぐって中に入り、暖かさにほっとしていると僕の目に信じられない光景が飛び込んできた。

サンタクロースがレジを打っている。

真っ赤な上着、ミニスカート、それに帽子。ところどころ白いふわふわがついていて、どこからどう見てもサンタクロースだ。まさかサンタがクリスマスの二十日も前からこんな近所でバイトをしているなんて、僕は予想していなかっただけにあっけにとられてしまった。しかも顔を見てみるとそれはずっと以前からそこで働いていた女の子なのだ。

まさか、彼女がサンタクロースだったとは!

なんてね、僕だってそんなに馬鹿じゃない。彼女だけがサンタだなんて思っちゃいない。世界中にサンタクロースはたくさんいるのだ。だってそうだろ? 一人で何億人もの子どもたちにプレゼントを運ぶなんてできないんだから。科学的思考で考えれば当然のこと。

しかしこん身近で大っぴらにバイトをしているのには驚きだった。サンタは有名人なのだからCM出演やコカ・コーラのイメージキャラクターとしての収入でやっていけてると考えていたのだが、それは間違いだったらしい。サンタたちは、子どもたちへのプレゼントを購入するため、あるいはトナカイのレンタル料や侵入用の道具の購入資金のために地道にバイトをしているのだ。

ああ、ごめんよサンタさん。僕はテレビやポスターで大きく取り上げられているあなたの華々しい姿しか見ていなかった。あなたが人知れず努力しているってことを意識していなかった。これからはもっとあなたに感謝することにするよ。小さい頃は毎年プレゼントをくれてありがとう。そして、これからもがんばってください。もし配達に疲れたら、僕の部屋に来て休んでくれてもかまわないから‥‥‥。


クリスマスの夜、月の光に照らされて、トナカイにソリを引かせたサンタが空を飛ぶ。真冬の夜はただでさえ寒い。上空を飛ぶサンタはあまりの寒さに思わず弱音をはくこともあるかもしれない。

「ちょ、これ寒すぎなんだけど。休憩しよ休憩」

するとトナカイがしかめっ面で言う。

「はあ? むしろはやく済まして帰ろうぜ? ちんたらやってたら夜があけちまわあ!」
「お願い、ちょっと。ちょっとだけ。五分だけ休も!」
「しょうがねえなおい。これだから軟弱な女サンタとペアは嫌だったんだ」

トナカイはぶつぶつと感じの悪い嫌味を言いながら休憩できそうな場所を物色して地上に近づいてゆく。そしてたまたま選んだのが僕の部屋のベランダ。電気を消してベッドに入ってはいたものの、眠れずにいた僕はベランダから物音がしたのに気づいてベッドを抜け出して窓の方へ近づいてゆく。カーテン越しに、ぼんやりとした月の光が透けているが、それとは別に、すぐ近くに赤い光があるように見える。僕は不審に思ってカーテンをさっと開ける。

そこには鼻が赤く光っている一頭のトナカイと寒そうに自分の体をさすっているサンタクロースがいた。窓を開けて僕は話しかける。

「あ、あの、よかったら中に入りますか?」
「え、いいんですか?」

僕は彼女を部屋の中に招き入れて、電気とコタツのスイッチを入れる。彼女がコタツに入って暖をとっているときに、僕はコーヒーを用意する。

「砂糖は何杯にします?」
「あ、三杯で」
「ミルクは?」
「お願いします」

彼女はマグカップに指をあてて氷のように冷えきっていた指をあたためながらそれを飲んだ。僕はブラックのコーヒーを飲みながら好奇心を刺激されてまじまじと彼女を見てしまう。それからサンタの仕事についていくつか質問をしたり、会話をしたりしているうちに彼女のカップの中身が空になった。ちょうどそのとき、窓ガラスからこんこんという音が聞こえた。外で待っていたトナカイをしびれを切らして角でガラスを叩いているのだ。

「いけない、あたしそろそろ行かなくちゃ。またトナカイの奴に怒られちゃう」
「じゃあ、がんばってね! そうだ。これを使って」

と言って、僕は彼女にカイロとマフラーを手渡した。

「ありがとう。サンタはあたしの方なのに、プレゼントをあげられなくてごめんなさい」

彼女を送り出そうと窓を開けると、冷たい風が吹き込んできた。

「おいおい遅ぇぞ! まだあと三十件も残ってるんだぜ! 早くしろい!」

トナカイが鼻息をはきながらいらついて足を踏み鳴らしている。

「わかったわよ」とサンタが不機嫌そうに応じ、また僕の方に向き直って、「ほんとうにありがとう。あの、相手が子どもじゃないとプレゼントはあげられないんだけど‥‥‥」と言って、僕の頬にキスをした。

「あ、ありがとう。最高のクリスマスプレゼントだよ」

僕がそう言うとサンタはソリに乗り込んで、トナカイに引かれながらクリスマスの夜の空に飛び立って行った。僕は彼女のソリが闇に溶けて見えなくなるまで、白い息をはきながら彼女を見送った。

2007/01/17

水平線に夕陽が沈んでゆく。ゆるい曲線でふたつに区切られた海面と空が橙に染まる様子を、僕は太平洋に架けられた長く細い橋の欄干から身を乗り出して見つめていた。それからまたまっすぐに伸びたその道を歩き出すと遠くに豆のように見えていた人物がだんだん大きくなってさいごには顔が確認できるほどになった。僕はそのブロンドと白髪まじりの初老の紳士に挨拶した。

「Good evening! 夕陽が綺麗ですね」
「ええ、ほんとうに。心が洗われるようですなあ」

ここは太平洋の上に建設された巡礼者の橋。僕はリュックサックひとつを背負って二週間前にアジアを出発したところだった。いつしか日は沈みきり、闇が僕と橋を包み込んだ。黒い海を満天の星空と街灯の光が照らしている。いつもならそろそろテントを張って睡眠を取る時間だけれども、あまり疲れていないし夜空が綺麗だったのできょうは夜通し歩いてみようと決めた。

「こんばんは」
「こんばんは。もう遅いのに、まだ泊まらないんですか?」

しばらく歩くと宿泊の準備を整えて道に寝転ぶ女性の巡礼者を発見した。

「ええ、今夜は夜通し歩いてみようと思いまして」
「それはそれは。どうです? その前にコーヒーでも」

僕は彼女の言葉に甘えてインスタントのコーヒーをもらうことにした。潮の香りに慣れ切った僕の鼻には、コーヒーの香ばしい匂いが懐かしかった。毎日決まった時間に起きて会社に出勤していた頃の生活を思い出してクスリと笑った。

「どうしたんですか? 何かおもしろいことでも?」
「いえ。ただ、この旅に出る前の自分を思い出してしまいましてね」


ウウウ、ウウウ、ウ、ウ、ウ。どこからか低いうめき声のような音が聞こえてきた。

「あ、クジラの鳴き声ですね」と彼女が言う。
「何クジラでしょう?」
「たぶん、シロナガスクジラでしょう。今のは親が子を呼んでいる声ですね」

それから、僕はプラスチックのカップを彼女に返して礼をいい先を急ぐことにした。なんだかきょうはいくらでも歩ける気がする。

この生活、と言っていいのかわからないが、この橋の上の巡礼に時間という概念は必要なかった。二十四に区切られた数字は存在せず、そこには、昼は太陽の、夜は月と星座のゆったりとした移り変わりがあるだけだった。しばらく歩き続けてふと上を見ると、さっきまで真上にあったオリオン座がだいぶ水平線に近づいていた。

橋と平行線を辿る天の川はまるで空に映し出されたこの橋のようだった。もしかしたら地球は丸くないのではないか。空だと思っているものは海なのではないか。海だと思っているものは空なのではないか。そんなことを空想していた。

この橋が人間のために造られたものであるとするなら、天の川はだれのために造られた橋なのだろう。その乳白色の橋を誰が何を想いつつ渡るのか。神々の通り道なのだろうか。それとも死後の魂の?

アメリカ大陸到着が予定では三週間後。僕はさいごまで無事この巡礼を成し遂げることができるであろうか。もしそれが達成できたならば僕はこの橋から星空を見上げたように人間たちを見てみよう。その精神の輝きに目を向けてみよう。空と海がその色彩で清めてくれたこの目で。

ああ、東の空が白んできた。
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。