2006/11/04

記憶のメカニズム

人間の記憶とは、不思議なものだ。

ついさっき、日記を書くにあたってまずある小説の引用文を冒頭に記そうとしていた。なので、その正確な文章をインターネットで検索してこっそり盗んでこようとしたのだけれど、小説の名前を忘れてしまった。引用しようとした文章の内容は覚えているのに、だ。仕方なくそれを書いた小説家の名前で検索してタイトルを調べようとしたら、なんと小説家の名前まで出てこないときた。

目の前のディスプレイには何でも教えてくれるGoogleが、今か今かと空白の検索ボックスを空けて待ちあぐねているというのに、頭の検索装置はなかなか答えを教えてくれない。何だっけ、ほら、あの人だよ、日本人なら誰でも知ってるほどの有名作家じゃないか。

僕は不十分なデータを思い浮かべ、その作家の名前を脳内から検索しようと試みた。すると、頭の中の「もしかして機能」が働いてヒントを与えてくれる。

もしかして夏目漱石?おしい気がするけど違う。
もしかして芥川龍之介?遠くなった。夏目漱石より古い時代の人だ。
もしかして紀貫之?戻り過ぎだ。
もしかして中田英寿?それは作家じゃなくてサッカー選手だ。

明らかにGoogle以下の機能しか備わっていない僕の頭は次々と的を外してゆく。しかし、しばらくすると、一発だけ的をかすっている単語が浮上してきた。

もしかして鴨長明?

うむ、明らかに違うのだ。違うのだけれど、何かひっかかりをかんじる。年代から考えて明らかに正解からはかけ離れているはずなのに、なぜだか見過ごせない。

やや目的の小説家に近づいた気がしたところで、急に彼の別の作品のタイトルを思い出した。そうだ、『高瀬舟』という作品があったはずだ。僕はやっと出会えた恋人の手を握るようにGoogleの検索ボックスに『高瀬舟』と入力して検索ボタンをクリックした。答えが出た。

森鴎外。

そうだそうだ、森鴎外だ。なんで僕は、日本人なら誰だって知っているような大作家の名前をど忘れしてしまったんだろう。自分が恥ずかしくなってしまう。

答えが出て一件落着したのはいいのだけれど、さっきの「鴨長明」の件が気にかかる。明らかに森鴎外とは時代がかけ離れているのに、どうして僕はその単語になぜかピンとくるものをかんじたのか。

森鴎外‥‥‥鴨長明‥‥‥森鴎外‥‥‥鴨長明‥‥‥。

わかった。森鴎外の「鴎」と、鴨長明の「鴨」に反応したのだ。鴎と鴨、カモメとカモである。漢字も読みも、意味も似ているこの二つの字の親近性が、一見かけ離れている二人をつなぎ合わせたってわけだ。

それにしても、こんなにわずかな共通点であっても鴨長明に反応を示した僕の脳はそんなに捨てたものではない。Googleにはこんな類似性を見いだす機能は絶対に獲得できないはずだ。Googleなど、所詮はインターネットという虚構世界にだけ存在する不完全で薄っぺらな幻に過ぎない。一方、人間の脳は正確さこそ欠けているが有機的で臨機応変な能力を持っている。ほんのささいなことだったけれども、僕は脳の記憶のメカニズムの優秀さに触れたような気がしたのだった。

しかし森鴎外の文を引用してどんな日記を書こうとしていたのか、まったくもって思い出せない。

2006/11/10

イスラム教徒

先日、ドイツから日本語を学ぶために来ている留学生と交流する機会があった。

僕たちドイツ語を学んでいる日本人が七人と留学生二人の合計九人で京都のお寺を見学しにいった。まだ紅葉を楽しむには早すぎたが、美しい日本のお寺を堪能してもらえたと思う。僕らはドイツ語を学んでいて、彼らは日本語を学んでいるから、お互いにドイツ語でしゃべったり日本語でしゃべったりして、語学の訓練にもなった。

お寺を見物したあとは、飲み会。そこでお酒を飲みながらゆっくり会話を楽しんだ。僕は、両親がトルコからの移住者だというマフムートという青年と話をしていた。

「マフムートはイスラム教徒なの?」
「うん。僕の両親もイスラム教徒だからね」
「じゃあ毎日お祈りをするの?」
「ううん。僕はしないよ」

そう言ってマフムートはぐいっとビールを飲んだ。

「へえ。あんまり熱心じゃないんだ?」
「うん」
「でも豚肉はやっぱり食べないの?」
「出されれば食べるよ」

そしてまたぐいっとビールを飲んだ。

いや、お前ぜったいイスラム教徒じゃないだろ!

2006/11/12

風邪に注意

昼過ぎ、僕は食料調達のために外出することにした。

ドアを開け、三階から一階まで階段を下ってゆく。途中、急いで上ってきたかわいい女の子とぶつかって「すみません」「いえ、こちらこそ」とかいうやり取りのあとお互いに運命を感じたりなんかして彼女になってくれないかなと期待しつつ、気づけばもう一階だ。見事に裏切られた。そしてここでもう一つの裏切りが僕を襲う。外の温度が低すぎるのだ。

「ついこの間まで厳しい残暑だったというのに、これはどうしたことだろう?こんなに寒くなっているなんて。嫌だ。冬が来るなんて、嫌だ。寒くなったなんて、認めたくない!」

僕はかたくなに寒いという事実を無視しようとした。まるで思春期の女の子が親に「洋子の本当のお母さんとお父さんは、洋子が生まれてすぐ交通事故でなくなったの。他に身寄りのなかった洋子を、子どものできなかったあたしたちが引き取ったのよ」と告げられたときに「嘘!そんなの嘘よ!」と拒絶するときくらいかたくなに寒いという事実を無視しようとした。手が寒くても、ポケットに入れたりなんかしなかった。部屋に引き返して厚着しようともしなかった。すれ違う人々がジャンパーを着ていようと、マフラーを巻いていようと、そいつらが極度の寒がりもしくは頭のおかしい人だと思うようにしていた。

そんな強がりを言っていた僕だけれども、現在なんだかカゼをひきそう。さすがにここまで来ると自分の馬鹿さを悟らざるを得ないのだけれど、もし明日、具合が悪くなるようだったらカゼ薬を買ってこようと思う。それで、階段を降りてゆくときに急いで上ってきたかわいい女の子とぶつかって「すみません」「いえ、こちらこそ」とかいうやり取りのあとお互いに運命を感じたりなんかしてやさしく看病してくれたらいいな。

「グレエ、熱計ってみなよ」
「いいよ。大したことないって」
「駄目だよ、ほらっ!」
「うん‥‥‥」

僕は彼女が差し出した体温計をしぶしぶ脇にはさんで体温を計る。三十八度五分。

「やっぱり熱あるじゃん。待っててね、お粥つくってあげる」
「ありがとう。すまないねえ、こんな老いぼれに気ぃ使ってもらって」
「何変なこと言ってるのよ」

数十分後。

「はいお待たせ」
「熱そう」
「甘えんぼさんね。フーフー」

みたいな。

まあ、あれですわ。平熱でも妄想という幻覚症状が出っぱなしです。

2006/11/14

美容院

たかが体の一部でありながら、体の一部という卑しい分際でありながら、前髪の奴らは揃って伸びてくる。足並みそろえて下へ下へ。そうして僕の目に侵入し視界を遮り、ひいては鼻の頭をくすぐってきやがる。僕は、そんな前髪どもを、許すことができない。

これまで何度となく美容師という名の執行人に前髪を粛正させてきたわけだけれども、また性懲りもなく奴らは伸びてきやがった。たった三ヶ月で同じ過ちを繰り返すとは、いい度胸である。

もし僕が女だったら、こんなに奴らに困らされることもなかったし、こんなに執拗に罰することもなかったろうに、と残念に思う。もし僕が女なら、カチューシャをしたり、ゴムでくくったり、クリップみたいなので止めておくことだってできたのだ。切るだなんていう野蛮な手段に打って出る必要もなかったのだ。けれど、僕は悲しい運命を背負った生き物、男。前髪の侵攻を防ぐ手段はたった一つ、切ることだけなのだ。

僕はきょう、美容院へいった。街の片隅で、ひっそりと何人もの人間の髪の毛を切り刻んでいる、あの場所へ。

「きょうは、どんなかんじでお切りしましょうか?」

茶色の長髪におしゃれな洋服をまとった三十前後とおぼしき女性が、刃物を片手に僕の背後に立ち、そう尋ねた。

「前髪が鬱陶しいので、眉の辺りまで切ってください。他は、軽くするかんじで」

僕の注文を聞くと、執行前の儀式なのだろうか、彼女は念入りに僕の髪の毛を洗った。それが終り席に戻ると、彼女はためらう素振りも見せずに、僕の髪の毛どもをばさばさと切り落とした。僕の肉体の一部であったそれらは、無惨にも床にばらまかれていった。彼女はいくつもの道具を巧みに使い分け、まるでそれが日常茶飯事であるかのように、まるで与えられた仕事を淡々とこなす感情のない人形のように髪の毛を切っていった。

「こんなかんじでよろしいですか?」

数万、数十万、あるいはもっと‥‥‥。想像を絶する、おびただしい数の髪の毛の粛正が終わった。とても正視に耐えない地獄絵図が目の前に広がっていた。が、それを自らの手で遂行した彼女はというと、余裕の笑顔。僕は彼女の冷徹さに恐怖さえ覚え、口答えなどできる状態ではなかった。

「はい、大丈夫です」

僕は平静を装いつつ、その美容院を出ていった。店の中では、見習いらしき青年が、床にごみのように散乱する無数の髪の毛を掃除していた。外に出ると、空は日没と雨雲のためにだいぶ暗くなっており、頬をなでる風が冷たかった。僕は、この世界の無情と不条理に心を痛め、大粒の涙を流した。

なんてことはなく、さっぱりしてすごい気持ちよかった。

2006/11/17

日本語学

「私は大学生だ」
「私が大学生だ」

この二つの文はほとんど同じ意味だけれど、ニュアンスや使うべき場面がわずかに違う。例えば、「あなたは何をしていますか?」という質問に答えるなら「私は大学生です」でないと不自然だし、「あなたと彼女、どちらが大学生ですか?」と問われれば「私が大学生です」と言わねばならない。

なぜそうなのかと問われてもうまく説明することはできないけれど、日本人であればこれは感覚的に理解できるはずだ。逆にしたら、「なんとなく変だな」と気づく。こういう、すぐにはっきりとした説明はできないような絶妙な日本語のルールは、よく考えてみると実におもしろい。今日はこの辺のことについて極めて学問的な日記を書いてみよう。これを理解するには、洗練された日本語のネイティブのセンスが必要になるので、残念だが、日本語の辞書を片手に必死でこのブログを読んでいるエストニア人やブータン人の方はこの辺で読むのを諦めた方がいいだろう。

例えば、次の二つの文を比べてみて欲しい。

「彼女とは三ヶ月の付き合いだ」
「彼女とは付き合って三ヶ月だ」

上の文では、彼女は恋人かもしれないが、ただの友人や仕事仲間だという可能性もある。それに対し、下の文ではほぼ確実に恋人として付き合っている(そんな人間は死ぬべきだが)という意味になる。もう少し長い例文をつくるなら、

「彼女とは付き合って三ヶ月だが、性格が合わないので別れた」

という具合になる。

三ヶ月というのが男女の交際期間として長いのかどうか、世間の人はそこのところをどう評価しているのか知らないが、僕からしたらふざけるなという話だ。お前ら、そんなすぐ別れるならなんで付き合いはじめたんだ、ほんとうにお互いに好きだったのか、恋愛をなめてんのか、と小一時間問いつめてやりたい。目の前に二人を(できれば下着姿で)正座させて、意地の悪い上司が気の弱い新入社員をいびるようなかんじで、陰湿に、精神的にこたえるような仕方でぐちぐちと問いつめてやりたい。

だいたい、すぐに別れるカップルが多すぎだ。例えばサークルの四回生の大谷と三回生の島田さん。奴ら、付き合いはじめのときは日本刀で二人まとめてバッサリいってやろうかと思うほどに浮かれてて、大谷も「今日で一ヶ月だ。メールしなきゃ」とか言っていたのに、そういえばあの二人は今どうなったのかな、と半年後に他の友人に聞いてみたら「もうとっくに別れたよ」との返答。もうね、ふざけんなと。死ねと。下着姿で死ねと。僕は現代の若者の飽きっぽさというか、恋愛の浅さにはほとほと嫌気がさしているのですよ。

同じ学科の石渕と荒井さんも然り。あれだけ人前で付き合ってるムードっていうか、こう、お互いの部屋にいって汚かっただのなんだのと万死に値するような会話を公の場でしておきながら、数ヶ月後に僕が他の友人に「あの二人、最近いっしょにいないよな」といったら、「何言ってるの?もうとっくに別れたよあの二人」との返答。もうね、ふざけんなと。死ねと。エストニア人に辞書で殴られて死ねと。僕は現代の若者の飽きっぽさというか、恋愛ごっこにはほとほとうんざりしているのですよ。

こういう具合に下の文は胸の中の黒い感情を刺激するのですが、上の文は刺激しない。「三ヶ月」と「付き合う」を反対に並べただけなのに、日本語ではこのような著しい意味の違いが生まれてくるわけです。

今日は役に立つ日本語学の話だったので、これを何度も読み返して「寂しいと人間の心はここまで歪んでくるのだ」という事実を学び、大学生の方は卒業論文のテーマなどにしてみてください。もれなく担当の教授から哀れみの視線をプレゼントされることでしょう。
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