2008/05/23

コギト・エルゴ・スミマセン

この頃はドイツ語の文章や哲学書ばかり読んでいて、頭の中がトポロジーの難問みたいなこんがらがり方になってきたので、久しぶりに、気晴らしとして新書を買って読んでみた。姜尚中(カンサンジュン)の『悩む力』だ。

この姜尚中という人には、メディアに露出している知識人の中で、何か光るものを感じる。人間として厚さがあるというか、現代の問題を論じながらも、過去の思想に根付いた安定感がある。

この本では夏目漱石の作品を取り上げながら、現代と、現代の中に残る近代の問題が扱われている。はじめの方に書かれていたのがヨーロッパ近代における「自我」の問題だ。

この新書は一般向けにかなりフランクに書かれているので、姜さんの個人的な体験なども盛り込まれており、自我についても、自分の十代・二十代の頃のいくらか赤裸々な経験が述べられている。

それを読みながら、ふと、ぼくは思った。

「ぼくの自我はどこだろう? 」と。

思えば、十代中盤の頃はまだ自我があった気がする。でも、そのあとしばらくしてどこかへ消えてしまったようだ。きっと、どこかに置き忘れてきたのだろう。

「お母さーん! おれの自我どこー?」
「知らないよ。机の引き出しじゃないの?」
「なかった」
「もうっ、ちゃんと閉まっとかないからすぐなくすんだよ!」

お母さんに、怒られてしまった。

それから、さんざんカバンの中やズボンのポケット、さらにはふだん絶対見ないような引き出しまで探したけれど、出てきたのはホチキスの針や壊れた腕時計ばかりで、自我は結局見つからずじまいだ。あと、乾電池が出てきたけれど、未使用なのか使用済みなのかわからなかった。そうして、気づけばぼくは見つけるのを諦めて、井上陽水と踊っていた。夢の中へ行っていた。

あれから、五年。

自我を失ったぼくは、コギト・エルゴ・スムとはならず、コギト・エルゴ・スミマセンになった。「われ思う、ゆえに、われなし」である。ぼくはデカルトの『方法序説』を読むのをやめ、冷蔵庫の下に敷いてガタガタを直すのに使った。(薄いからちょうどよかった)

今でも、ぼくは自我のない生活を余儀なくされている。そのせいで、ときどき、友達同士で自我の話になると、とても居づらい思いをするのだ。周囲で楽しそうに自我について談笑しているとき、ぼくは冷や汗を書きながらなんとか話をあわせているという惨めな状態である。

「清水の自我はさいきんどんな調子なん?」
「えっ? いや‥‥‥ま、まあまあだよ」
「ふーん」

といったありさまである。

もし、自我を育てすぎて余っているという人がいたら、一個でいいからぼくに分けて欲しい。


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この記事へのコメント
今何年生ですか?
Posted by 須崎 at 2008年05月24日 13:45
もはや4年生となりました。

そういえば、「書いてる人」のとこの学年が前のままでしたね。この二ヶ月近く気づきませんでした。
Posted by 清水 at 2008年05月24日 14:35
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