2008/05/01

ぶらぶら

久々に、気の向くままに外出してみた。

思えば京都市内に来てからというもの、ほとんど大学と部屋の往復で、たまに買物に出るくらいがそれ以外の外出だったけれど、久々にいつもは右に曲がってしまう交差点を直進で進んでゆくと、そこはぼくの網膜になじみのない景色で、なんだか心がうきうきした。

まず、大徳寺にいってみた。そこでナントカ院とカントカ院をみた。畳のにおいが懐かしかった。観光シーズンとはいえ、来訪者はそんなにいなくて、ゆっくりと見ることができた。

が、

ここ一週間ほど原因不明の鼻炎に悩まされていたぼく。このとき、すでに鼻は音を上げていた。「も、もうだめっすよぉ」と言わんばかりに鼻水が出てくる。ここからしばらくはハンカチで鼻をかみつつの行動となった。

あと、めちゃくちゃ暑い。これが4月だろうか? うららかどころではなく、うらららららかくらいの暑さ。ぽかぽかというより、ぼがぼが陽気。ぼくは上半身のジャケットもシャツも脱いで、Tシャツ一枚になった。(下半身ははじめから何も着てないのでそのままだ)

しばらくぶらぶらさせながらぶらぶらして、大徳寺を去った。予定などないのでチャリで適当に東に向う。途中でコーヒーとケーキが欲しくなったので、喫茶店に入ってコーヒーとケーキを注文し、コーヒーとケーキが出て来たので、コーヒーを飲んでケーキを食べた。喫茶店「翡翠」。店内はいい感じに古びてておじいさんや子連れの主婦がいて、いい感じだった。音楽は欧米の60's、70'sといったもの。喫茶店ってやっぱり古い音楽が合う。最近のJ-POPとか流れてたら台無し。

一時間ほどしたら、また東へ。すると大谷大学があって、大谷大学は大きな谷のそばにあるもんだとばかり思っていたぼくは腰を抜かした。名前だけ谷でも、ムーミンがこんなところにいようはずもない。(ムーミンがいるのは東洋大学だ)

で、その前にはVIVREがあって、ぼくはそこに入った。実はぼくはデパートが大好きだ。あの雰囲気がたまらない。

そのVIVREはきれいな建物で、中庭みたいのがある。で、そのスペースの中央には、青空の下にエスカレーターがあるのだ。

野外エスカレーター!

こんなに興奮するものがあるだろうか? あんな未来的なものが、雨をものともせず、青空の下で可動しているのだ。これはすごいことだ。まるでタイムスリップしたみたいだ。

「うわーい!」

ぼくは何度も野外エスカレーターを上り下りした。おじさんや主婦、それに制服を着た中学生、高校生たちもぼくのことを見ていた。すると、怖い顔をした警察の方々がきて、ぼくの手首に手錠をかけ、パトカーにのせた。わいせつ物陳列罪だった。


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2008/05/02

アニメをみた

ぼくだって、たまにはアニメをみることもある。

浪人時代から今日まで、もはや四年以上に渡ってテレビのない生活をしているという世捨て人のぼく。リア・ディゾンとか相武紗季とか言われても顔さえ出てこず、むしろ「愛撫好き」と聞き間違えて興奮してしまうぼく。それこそ「テレビもねぇ、ラジオもねぇ」生活をしているぼくなんだけれど、ごく稀に、DVDという娯楽を享受することもあるのだ。

昨日はゴールデン・ウィークで暇だということもあり、久しぶりにDVDのアニメをレンタルしてきた。

ゴールデン・ウィークなのに人とも会わず、一人でDVD鑑賞に耽るというあたりが涙を誘いますが、それは置いておきましょう。とにかく、DVDを数本借りてきたのです。まずみたのが、SFの金字塔『Back to the Future』の第三部でした。タイムマシンを発明した科学者のドクと青年マーティの時を駆ける大冒険。これには心が打ち震えました。ストーリーもさることながら、この二人の絶妙なコンビが作品にユーモアと刺激を生み出しているのでしょう。まるで、ある薬品とある薬品を混ぜると、ある強力な気体が発生するのと同じように。

しかし、Fu‥‥‥いえ、『Back to the Future』を見終わってしばらくしてから、気づいたことがあるのです。それは、「DVDをみていると、ぼくの生活が荒れる」ということでした。

元来、なぜぼくがテレビもみずゲームもしないのかと言うと、ぼくは欲望に弱くてすぐそれ以外のことができなくなってしまうからなのです。もう、一度そういうものにハマってしまうとなかなか抜け出せない。元の生活に戻りたくても戻れない。現代版『浦島太郎』とは自分のことだと自負するほど、ぬるい環境に弱いのです。

だから、Fuc‥‥‥いえ、『Back to the Future』にしても、見終わったあとは頭の中が時空を駆け巡っちゃってどうしようもないのです。気づいたら右手と左手がケーブルをガチャーンッ! ってやる動作を再現しているような末期症状。気づいたらかわいい女友達を勝手にヒロインの座に据えていっしょに未来に行って将来の自分たちを発見し、それからてんやわんやで最終的に「I love you」と言ってキスをして終る、というストーリーに没頭している最末期症状。

これでは、いけない。

ぼくは、フィクションとか娯楽なんてものが諸悪の根源であるということを思い返し、借りてきた他のアニメはみないことにした。こんなものをみるのは資本主義の豚である。アニメなど、所詮は人間の理性を腐らせるだけの低俗な娯楽産業。そんなものは、みずに返却だ! こんな『涼宮ハルヒの憂鬱』なんて、そのまま返してきてやる!

そういうわけで、アニメはみてない。


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2008/05/04

夜の散歩

せっかくの休暇だというのに、原因不明の鼻炎で頭がぼーっとする。

鼻水が出て頭がはっきりしないとなると、もう勉強など一つも手につかない。読みかけの本もそのままで、語学の勉強も手つかずで、ただただ頭を使わなくてもいいようなことばかりしている。現在のIQはたぶん50を切っている。

こうなるとなんにもやる気がなくなってしまい、自炊もめんどうで外食ばかりだ。今夜は少し遠くのバー風レストラン、「すき家」に行ってきた。

部屋から出て自転車にまたがってペダルをこぐと、夏の夜のようなひんやりした風が心地よい。ついこの前まで毎日のように雪が舞い、厚手のジャンパーを着ないと外出できなかったのが嘘のようだ。今夜は軽くシャツを羽織るくらいで十分だった。

「すき家」では、牛丼サラダセットの並盛りを注文した。二週間ほど前の論理学の授業で、教授が「牛丼屋の牛丼は香料が死ぬほど使ってあって、あの風味は実はぜんぶ化学の力」という話をしてたのを思い出したが、現代っ子のぼくにとってはどうでもいい話だった。むしろ、化学薬品満載のものを美味だと感じるなら、それでいいじゃないか。

それから、近くのビデオショップで数本のDVDを借りた(DVDがメインになっても、ビデオショップという名で呼ばれているのはおかしな現象であるが)。頭が働かないとき、活字を離れて映像に逃げるのは合理的な選択だろうと思う。

ぼくはビデオショップの袋を小脇にかかえて、家路を歩きはじめた。少しまえに買ったイタリア製のちょっといい靴が、コツコツと暗闇の中でいい音を響かせている。夜の空気はひんやりとぼくのからだを包み込み、鼻炎でぼーっとした頭を冷やし、いくらか思考をクリアーにしてくれた。

あと一分ほどで帰宅、というところで、ふと、いくらかクリアーになった頭が、自転車のことを思い出した。自転車、「すき家」の駐輪場に置きっぱなしである。

夜の散歩は距離が約二倍に増え、ぼくの頭への信頼は地に落ちた。


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2008/05/05

論理学

久しぶりに鼻炎が終息したので、きょうは勉強に集中することができた。

いちばん時間をさき、没頭したのが論理学の本。二週間ほど前に買ってから手をつけられずにいた一冊だ。

はじめの方を読んでいると「そんなの当たり前じゃないか」ということばかり書いてあって退屈なのだけれど、少し辛抱して読み続けてゆくといくつもの興味深い問題にぶつかる。

論理学についてぼくがいつも興味をかき立てられるのは、日常的な言語との共通点と違いだ。両者にはほぼ同じような部分もあるし、ぜんぜん違う部分もある。代表的な違いは、日常言語にだけみられる「含意」というもの。

たとえば、誰かから電話がかかってきて、

「いま何してるの?」

と質問された場合、その人は、常識的には「勉強してる」とか「テレビをみてる」と答えることが期待されている。しかし、論理学的に考えれば、「学生生活だよ」とか「息してる」と答えても差し支えない。が、日常言語によるコミュニケーションでは、そのようなわかりきったことは除くべし、という含意が付与されているのだ。

他にもおもしろいことはいろいろあるのだけれど、このくらいにしておこう。まだあと三分の一ほどページが残っているから、あした続きを読むことにする。どうせ彼女もいないし、友達と遊ぶ予定もないから。

アイム、ロンリー。


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2008/05/06

セレブな生活

ゴールデン・ウィークも、いよいよ最後の一日。

先月末あたりにバイトの給料が振り込まれて、お金にはいくらか余裕があった。さすがにモナコでスーパーカーをコレクションしつつ女を囲いまくって生活、という夢にはほど遠いが、それでもぼくにしては余裕のある生活ができた。

そこできょうも惜しむことなく財を放出し、京都の老舗喫茶店で本を読むというセレブリティな一日を過ごすことにした。ぼくはこのあいだ買ったシャツとジャケットを羽織り、カバンに書物を詰め込んで玄関を出た。

外は晴れた日の青空のように青い青空が広がっており、そこには青空に浮かぶ雲のように白い雲が浮かんでいた。まるで、晴れた日に外出したかのような心地よさだ。

ぼくらは日々の忙しい生活の中で、空の美しさを忘れがちだ。広大で、澄んでいて、世界中を包んでくれている空。空に比べれば、ぼくらの悩みなんてちっぽけでくだらないもの。ぼくらはもっと、空をみるべきなんだ。だって、空に比べれば、ぼくらの悩みなんてちっぽでくだらないものなんだから。それに、空は広大で、澄んでいて、世界中を包んでくれている。ぼくらは日々の忙しい生活の中で、空の美しさを忘れがちなんだ。

ぼくは喫茶店に赴くまえに、まずコンビニに立ち寄った。ぼくの夢はモナコでクルージングを日々楽しみながら女をたくさん囲ってセレブな生活をすることだから、コンビニなどという庶民ホイホイに入るなんてしたくなかったんだけど、手持ちのお金がなかったから仕方がない。

そこでカードを入れてお金を引き出そうとしたが、「ただいまお取り扱いできません」。次に別のカードを入れてお金を引き出そうとしたが、「ただいまお取り扱いできません」。万策尽きた。

ぼくは忘れていたのだ。ゴールデン・ウィーク中は、お金を下ろせないってことを。

無論、いくら倒置法で気取った文を書いてみたところで、この失態が美化されるわけではない。シェイクスピアだって、文は美化できても、事実そのものを美化することなんてできやしない。当然、きょうの喫茶店に行く計画はおじゃんになった。それどころか、財布の中の130円できょう一日を乗り切れるか否か、それが問題だ。

結局、本日の夕食は118円のカップ麺と塩をふった白米だった。食べ終わったあと、台所で粉スープの袋を床に落としてしまい、残っていた粉が散らばって床がとんこつ臭くなった。床が、とんこつ臭くなった。

もう一度言うけれど、ぼくの夢はモナコでスーパーカーのコレクションを趣味としつつ、囲ってある女たちと高級レストランで毎夜おいしいワインを飲んで甘い言葉を囁いたりして、休日はヨットでクルージングに出かけるという生活である。


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2008/05/07

プリント

ブォンジョルノ(こんにちは)。

実に久しぶりの大学だった。授業があるときはあるときでうんざりするけれど、なければないで寂しいものだ。だから、きょうはいくらか心がうきうきしていた。

「きょうは誰と会えるだろう?」
「どんな発見があるだろう?」

そんな期待を胸にキャンパスにゆくと、無数の学生たちが蜘蛛の子のようにうじゃうじゃいて退学しようと思った。

けれど、そんな誘惑をふりきってぼくはイタリア語の授業が行われる教室に向った。その教室はなぜか薄暗い地下で行われている。こんなところ、魔術の講義とかしかやってないだろうという場所だ。実際(嘘だけど)、隣の教室からは終始怪しい呪文と生け贄に捧げられる子羊の鳴き声が響いていた。

「ブォンジョルノ!」(こんにちは)

イタリア語の授業はこの言葉からはじまる。定番である。中学時代、英語といえば妙にテンションの高い先生の「グッモーニン!」ではじまったし、大学のドイツ語でも「グーテンモルゲン!」で授業が開始される。これらの言葉たちは、人と人が会ったときに交わされるものなのである。人はそれを、「あいさつ」と呼ぶ。卑猥な言葉である。

それにしても、授業を受けにきたはいいが、鼻水が止まらなかった。この二日間の沈黙を破り、鼻炎が再度猛威を振るいはじめたのだ。きっと、ちゃんと毛布をかけて寝なかったからだ。

おれの鼻水は止まらねぇし、おれのライムも止まらねぇ。みんなのハートに響かせるぜムーヴ、水を垂れ流すおバカなノーズ。ビッチの腰に腕回す出歯亀、鼻が詰まるんならさっさと鼻かめ。ヒルズに住むのはファッキンなセレブ、おれの愛用してんの鼻セレブ。半端な奴らはすぐにジ・エンド、おれはいつかこの手で作るぜレジェンド。イェー。

ついラッパーになってしまうほどの鼻炎に、ぼくは心底まいってしまい、仕方なく溢れ出る鼻水を手持ちのハンカチでちーんとかんだ。授業中に、ちーんとかんだ。ティッシュなど持っていないし、それに、欧米ではハンカチで鼻をかむのはふつうのことだからだ。

そんな中、先生がプリントを何枚か配った。そのプリントの束は、前の方の席から回ってくる。ぼくは前の席の人からそれらを受け取り、自分の分を取って、振り返って後ろの席の人に回した。が、後ろにいた女の子が、なんだか不機嫌な顔をしていた。

それからまた何度かハンカチで鼻をかみ、またプリントが配られた。同じように後ろに回した。彼女は、また不機嫌そうな顔をしていた。何秒かの黙考ののち、机に置かれた湿ったハンカチと湿った自分の手を見て気づいた。後ろに回したプリント、完全に、ぼくの鼻水が染みてた。手のひらを媒介して、若干の鼻水が染みてた。

ぼくは、なんだか少し、興奮してしまった。


ライオンキング

2008/05/09

合コンの誘い

合コンに誘われた。

就職活動や進学準備に多忙な時期に何をしているんだ、というツッコミは鞘に納めていただくとして、合コンに誘われた。合コン。同じ教授のゼミに所属する三年生との、である。

しかし、いかんせん気が進まない。一つ下の三年生はどんな人たちがいるのかわからないからとっても怖いし、いくらぼくが誰とでも仲よくなれるとはいえ、そんなよく知らない人たちとしゃべるのは不安だからだ。もしかしたら鼻をつままれて口にカルーアミルクを嫌というほど注ぎ込まれるかもしれないし、耳の穴に唐揚げの衣をぎゅうって詰め込まれるかもしれない。それを考えると、恐ろしいのだ。

そうして、ぼくは再来週の合コンに不安と恐怖を感じつつ、白いタキシードを着用し、シルクハットをかぶり、胸ポケットには深紅の薔薇をさして、鏡をみながら口説き文句を考えるのでした。


「スィニョリーナ。きみの美しさには、薔薇さえ嫉妬で赤く染まっているよ」


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2008/05/12

ベビー・ユニバース

ふたりの心が通じ合うとき、そこに小さな宇宙が生まれる。

日常の時間はひっそりとふたりに別れを告げて、新しい時間がふたりをやさしく包み込む。数多の人が行き交う空間も、すっかり様変わりして、特別にあたたかい光で充ちた別の空間が、ふたりのために生まれてくる。

見つめ合う視線の両端には、世界の半分を映し出した瞳があり、その世界の中には、ふたりだけしかいない。

一瞬の中に永遠が宿る。

ふたりのあいだに愛の炎が灯っている限り、そこには小さな、しかし不滅の宇宙がある。


──そしてここに、「ぼく」という永遠の闇に彩られたブラックホールがひとつ。


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2008/05/19

貴女の存在は光の如く

当然ながら、大学の授業には楽しいものとそうでないものがある。

月曜日の午後の一つ目、ドイツ語講読の授業は後者だ。レベルが高い、という面では退屈な授業より数倍マシだけれども、予習に五時間以上かかりしかも授業を受けてもなお理解しきれないという点で厄介極まりない。

予習に週末の半分ほどを持って行かれ、なお理解しきれないたった2頁ほどの文章。

「意味が分からない。これ何語だよ」

と文句を言うも、どうにもならない。もちろんドイツ語には違いないが、出てくる単語の半分近くがわからない。知らない単語に赤のマーカーをひいてゆくと、赤紙の完成である。御母様、御國ノ為ニ死ンデキマス。という言葉が、思わず口をついて出てしまうほどだ。

難しい構文の文章の訳をあてられてしまったときは、特に憂鬱だ。もし広辞苑に「てんぱる」という語彙が追加されるなら、口絵としてそのときのぼくの様子を掲載して欲しいくらいである。その授業をひかえたぼくの心境は、暗黒である。

だが、一つだけ救いの光が存在する。

それは一つ下の学年の女の子。むさ苦しい男五人に混じり、一人だけその授業に参加している紅一点の少女。それはまるで、闇夜を照らす月。

夜をゆく旅人が月の光のおかげで暗い道を歩けるように、ぼくは彼女がいるおかげで難解な授業にも参加し続けることができている。そう言っても過言ではない。重い辞書だって、らくらくカバンに入れて持っていける。なんならスキップである。

そう、女の子の存在というのは貴重である。それはまるで砂糖のように、あらゆる苦いものを甘くする。ぼくはつねづね大富豪の家を襲って金品を収奪したいと思っているけれど、刑務所には女の子がいないから思いとどまっているくらいである。(同じ理由で大麻や覚醒剤も我慢している)

きょうもその困難な授業は困難な感じで進み、困難な感じで終った。隣にその子がいなければ、とっくにぼくの脳はねじれすぎて白目を向いていただろう。口からぶくぶくと泡が出ていたことだろう。

「それでは、次の週は‥‥‥」

と、教授が言う。次の週のはじめの訳は彼女が担当することになっていたはずだ。

「先生、あの」と、その子。「実は、この授業はあたしには難しすぎると思ったので、この前履修を中止したんです。すみません」
「そうか。それじゃあ、今回限りでお別れやなぁ」と先生。
「はい、ありがとうございました」

一瞬で、光が消えてしまった。

なんということだろう。もはや、この授業には闇が広がるばかりである。

「じゃあ、この部分の訳は清水くんに頼もうか」
「あ、はい」

もはや、漆黒の闇である。


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2008/05/20

視線の先

お、女の子たちがぼくのことを見てる!

そんなふうに感じて、つい、勘違いをしてしまうことがある。え、おれ、もしかして。ひょっとして‥‥‥モ‥‥‥モテ‥‥‥モテて‥‥‥う、うひょひょ。げひげひっ。って、下品な笑いが漏れてしまうことがある。

大学のキャンパス。そこは最高の出会い系サイト。利用料は高いけど、女の子の登録人数は半端なく、年齢も二十歳前後に集中しており、直接出会えるというメリットがおいしいシステムである。そこを歩いているときに、女の子たちの視線をイヤというほど集めることがあるのだ。

そう、開放的な美しいキャンパスで、ぼくはふわふわした気持ちで授業教室へと歩いてゆく。

そして、机に鞄を置いてお手洗いに立ち、別の部分まで開放的だったことに気づくのである。


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2008/05/21

愛の炎は鎮火せず

地元で消防士をしてる友人に、子どもができた。

もう二年ほど会っていないけれど、久しぶりにメールが送られてきて、生まれて間もない赤ちゃんの写真が添付されていた。友人はまさに、幸せの絶頂であろう。

彼とは幼稚園から中学校までの付き合いで、よくいっしょに遊んだものだ。ぼくは小さい頃は極度に内気で、運動もできなかったけれど、彼は社交的でスポーツ万能、女の子たちにも圧倒的にモテていた。世が世なら犯罪じゃないの? ってくらいモテていた。

約二年前、ぼくがようやく大学に這いずり込んだとき、彼は結婚した。消防士という職を持ち、妻を養い、家庭を築いていた。一方その頃、ぼくは女の子に本を借りるときに指先が触れ合って「ドキッ」としていた。この恋愛格差を経済で表すならアメリカとツバルである。

しかも、それからしばらくして、とうとう、二人の愛の結晶である子どもまでできた。仕事は消防士だけれども、愛の炎はますます燃え盛っているのだろう。一方、ぼくは彼女の一人もおらず、悲しみの涙の中に沈んでしまいそうである。


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2008/05/22

あるばいてん

アルバイテン(arbeiten)、というドイツ語が好きだ。

これはむかし、まだ日本の大学生がドイツ語好きだったころ、学生言葉として日本語に定着した「アルバイト」の動詞形だ。意味はもちろん「働く」。いまでは「アル」をなくして「バイト」と呼ばれている。あるのかないのか。

そんな最高にくだらないことはいいとして、アルバイテン、という単語が素敵すぎる。たとえば、

「おれ、喫茶店であるばいてん」

と言えば、関西弁っぽく聞こえる。語尾が関西弁とまったく同じなのだ。

「よし子ってどこであるばいてんのー?」

でも通じる。たぶん、通じる。

さらに、アルバイテンは過去形もしゃれている。その過去形は、アルバイテテ、だ。

「おれ、むかしコンビニであるばいててさー」

これでOKである。完全に日本語として通じるレベルだ。

そして、アルバイテンの現在分詞(英語の~ing)はアルバイテンデ、である。(語尾はdだが、eがつくことが多く、デになりやすい)

すると、

「おれ、喫茶店であるばいてんでー」

となる。完璧だ。美しい日本語だ。


あるばいてーん

あるばいててー

あるばいてんでー

うっひょひょー い

あーる、ばーい、てーん!


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2008/05/23

コギト・エルゴ・スミマセン

この頃はドイツ語の文章や哲学書ばかり読んでいて、頭の中がトポロジーの難問みたいなこんがらがり方になってきたので、久しぶりに、気晴らしとして新書を買って読んでみた。姜尚中(カンサンジュン)の『悩む力』だ。

この姜尚中という人には、メディアに露出している知識人の中で、何か光るものを感じる。人間として厚さがあるというか、現代の問題を論じながらも、過去の思想に根付いた安定感がある。

この本では夏目漱石の作品を取り上げながら、現代と、現代の中に残る近代の問題が扱われている。はじめの方に書かれていたのがヨーロッパ近代における「自我」の問題だ。

この新書は一般向けにかなりフランクに書かれているので、姜さんの個人的な体験なども盛り込まれており、自我についても、自分の十代・二十代の頃のいくらか赤裸々な経験が述べられている。

それを読みながら、ふと、ぼくは思った。

「ぼくの自我はどこだろう? 」と。

思えば、十代中盤の頃はまだ自我があった気がする。でも、そのあとしばらくしてどこかへ消えてしまったようだ。きっと、どこかに置き忘れてきたのだろう。

「お母さーん! おれの自我どこー?」
「知らないよ。机の引き出しじゃないの?」
「なかった」
「もうっ、ちゃんと閉まっとかないからすぐなくすんだよ!」

お母さんに、怒られてしまった。

それから、さんざんカバンの中やズボンのポケット、さらにはふだん絶対見ないような引き出しまで探したけれど、出てきたのはホチキスの針や壊れた腕時計ばかりで、自我は結局見つからずじまいだ。あと、乾電池が出てきたけれど、未使用なのか使用済みなのかわからなかった。そうして、気づけばぼくは見つけるのを諦めて、井上陽水と踊っていた。夢の中へ行っていた。

あれから、五年。

自我を失ったぼくは、コギト・エルゴ・スムとはならず、コギト・エルゴ・スミマセンになった。「われ思う、ゆえに、われなし」である。ぼくはデカルトの『方法序説』を読むのをやめ、冷蔵庫の下に敷いてガタガタを直すのに使った。(薄いからちょうどよかった)

今でも、ぼくは自我のない生活を余儀なくされている。そのせいで、ときどき、友達同士で自我の話になると、とても居づらい思いをするのだ。周囲で楽しそうに自我について談笑しているとき、ぼくは冷や汗を書きながらなんとか話をあわせているという惨めな状態である。

「清水の自我はさいきんどんな調子なん?」
「えっ? いや‥‥‥ま、まあまあだよ」
「ふーん」

といったありさまである。

もし、自我を育てすぎて余っているという人がいたら、一個でいいからぼくに分けて欲しい。


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2008/05/25

からだにクレーム

ぼくは悩んでいた。どうして、背中は背中っていうのか。

それで、お母さんに訊いてみた。

「ねえねえお母さん。どうして背中って背中っていうの?」
「え、知らない。それより宿題やったの?」

ぼくはお母さんを呪った。お母さんのくせに、そんなことも知らないのかって。それに、宿題なんて、背中の謎に比べたらどうでもいいことさ。

中、中。背の中。イン・ザ・背。別に、背中って、中じゃないじゃないか。なんだっていうんだい。

ぼくは、きっと大人にごまかされているんだって思った。ぼくが子どもだと思って、きっと騙してるんだ。だけど、そうはいかないぞ! ぼくは大人なんかよりずっと賢いんだからな!

それで、ぼくは考えた。背中についていろいろ考えた。背中ってものは、なんておもしろいんだろう、って。名前もふしぎなら、存在もふしぎだ。だって、いちばん他人からみられる部分なのに、自分の目では一度も見たことがないんだから!

そこで、ぼくは神に文句を言ってやった。教会で祈りを捧げるふりをして牧師を騙しつつ、神にクレームをつけてやった。

「ねぇ、天にまします我らが神よ。なんで背中に棚をつくってくれなかったんだい? どうしてそこを収納スペースにしてくれなかったんだい? 腕をさぁ、もっと360度可動するようにしてくれればさぁ、背中にも手が届いたし、よかったんじゃないの!?」

すると、神は一瞬たじろぎ、「その件につきましては、最大限善処した結果でございますので、どうかご理解いただきたく存じます」と言った。それでも、ぼくは神をも恐れぬ気持ちで、

「でも、じゃあ、なんで棚をつくってくれなかったのさ」

と、追及の手を伸ばすと、

「それにつきましては、現在担当部署の方に確認中でございます」

と言った。

ぼくは背中問題に端を発し、自分の体に不満を持つようになった。なんでこんな不便な体なのだろうと。

たとえば、なぜこんなに毛がないのかと思う。人間は獣から進化したはずなのに、いまじゃ毛がなくなって全身ツルッツルで、いちいち服を着なくちゃいけない。しかも、女の子なんかもっとかわいそうで、化粧までしなくちゃいけないんだ。

これが、もし毛がたくさん残っていれば、服も着なくていいし、お肌のことだって気にしなくてよかったんだ。おしゃれがしたいなら、ちょっと全身をペロペロして毛並みを整えてればよかった。そしたら、

「エミちゃん、おはよう。きょうもきれいな毛並みだね」
「そう? ありがとう。今朝はいつもより時間をかけてきれいにしたんだ。気づいてくれたのは、清水くんだけだよ!」

ってなったはずさ。

それに、猫みたいにいろんな毛並みの人がいたら、すっごく個性的だし、わかりやすいと思うんだ。それに、ふわふわしてた方が触ったときに気持ちいいじゃないか。

あと、尻尾ももちろん欲しい。これは絶対だ。

ぼくは小さい頃から、猫をみて羨ましく思ったものだった。だって、あいつら、ぜったい人間のことを見てばかにしてるに違いないんだ! いかにも自分の尻尾を自慢げにくねくねさせて、ぼくに見せびらかしてくるんだ! ほらほら、いいでしょう? って感じでさ。しかも、長い髭までぴくぴくさせながらさあ! くっそー、なんてお洒落なんだ!

尻尾があれば、もっといろんなことができると思う。尻尾があれば、尻尾サインみたいなのを作って、秘密のやりとりができる。右に二回振ったら「遊びに行こうよ」のサインで、右左右左右で、「あ・い・し・て・る」のサインだ。ぐるっと時計回りに一回転させたあと左右に振ったら‥‥‥ああ、そんなの、口じゃ言えないよ!

ああ、尻尾が欲しい!


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2008/05/26

彼女があんまりいない

さいきん、人とじっくり話す機会がない。

これはきっと、彼女が少ないからだと思う。

いまはぼくには彼女が26人ほどいるけれど、その内の何人かは留学中で、さらに何人かは就職してしまって会えない日々が続いている。掛け持ちかつ遠距離恋愛という、複雑な関係性である。

もっとこう、キャンパスを歩けば彼女に当たる、という程度の人数になればいいのだと思う。そうすれば、たまたま顔を会わせた彼女を、軽くナンパするようなのりでお茶に誘い、おしゃべりができる。いちいちメールや電話で呼び出さなくてもOKだ。石を投げると彼女に当たる、という程度の状況になれば理想的。石を投げられた彼女は、きっとぼくをぼこぼこに殴るだろうけれども、それでも構わない。

たしかに、彼女が複数いると面倒なことも起こる。たとえば、髪形や服装などが頭の中でごっちゃになってしまい、髪形を変えたのにそれに気づかなかったり、逆に変えてないのに「変えたね」と言ってしまい、ボディーブローを入れられるといった事態である。

ボディーならまだしも、あるときなどいいアッパーを入れられ三途の川の畔まで行ってしまったことがあった(あの子はプロボクサーになるべきだと思う)。それ以来、ぼくは無用のパンチを事前に回避するため、会うたびに、彼女たちには「きれいになったね」と言うようにした。これならば、もし髪形や服装を変えていたらそれに対して「きれいになったね」と言ったように聞こえるし、変えてなくても非常に喜んでもらえるからである (女なんてかんたんなものだ)。

しかし、そんなマイナス点にも拘らず、ぼくはもっと彼女がいた方がいいと思うのだ。いまは32人しかいないから、あと17人彼女をつくって、合計74人になればいいと思う。だが、現実的にはそれだけの人数増加には危険が伴う。新しい彼女ができるたびに、他の彼女たちからもれなくパンチを入れられるからである。ぼくはさながら、人間サンドバッグといったところだ。たまに、パンチだけでなくキックや関節技をかけてくる子もいるからなおさら危険である。

できるなら、今後はなるべく格闘技のセンスがない女の子を彼女にしたい。


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2008/05/27

彼女のつくり方(石川啄木編)

さっそく、ぼくは新しい彼女をつくるために動き出した。

やり方はこうだ。

まずはキャンパスをぶらぶらと歩き、それとなくベンチに座っている女の子をチェックする。男といっしょに座っている場合は論外とし、別れることを神に祈って通り過ぎる。友達といっしょにいる子ももちろんスルー。狙うは一人で座っている子だ。

適当なターゲットを発見したら、持参した『キャンパス美女ノート』のページをめくる。このノートには三年二ヶ月かけて蓄積した大学の美女情報が余す所なく記されているのだけれど(現在八冊目に入っている)、その中から彼女の情報を探し出す。

すると、名前の欄はまだ空白だが、「国文学科、石川啄木に興味あり」ということが記されていた。ぼくは彼女がいなくならないうちに、すばやく図書館へ行き、『一握の砂』を借りてきて、隣のベンチに座って読んだ。もちろん、さりげなく表紙をみせ、啄木を読んでることをアピールする。

しかし、長居は禁物である。彼女がまだそこにいるうちに、次の行動に出なくてはならない。ある程度時間がたったら、自然な感じで、ベンチに『一握の砂』を置き忘れたまま立去ろうとするのだ。すると、よほどシャイか冷たい人でなければ、こう声をかけてくれる。

「あの、本忘れてますよ」

きょうもうまくいった。これで、半分成功したも同然である。

「あ、すいません。ありがとうございます」

「いえ。‥‥‥あの、国文学科の方ですか?」

きた。

この彼女の一言で、他人同士という心の壁に亀裂が入り、希望の光が漏れてくる。

「いえ、違うんですけど、啄木がすごく好きなんですよ。なんというか、アウトサイダーなところとか、理想と現実に挟まれた苦しみをうたっているところとか」

「ほんとですか! あたしも啄木が好きで、啄木で卒論書こうと思ってるんです!」

それから、ぼくはもう一度ベンチに座り直して啄木について語った。これで八割方成功したも同然である。 そうして、よきところでこう言う。

「よかったら、喫茶店でもいきませんか? 外は熱いですし」

ぼくは彼女を誘って、キャンパスからすぐ近くの、女の子を口説くときによく使っているお店に入った。そこで、軽い自己紹介とメアドの交換を済ませ、さらに詩歌の話を続けた。

「啄木の詩の中で、どれがいちばん好きですか?」と佐々木さんが尋ねる。

「やっぱりあれですね。ぼくは去年の夏に、実際、函館の方に足を運んだんですけど、その海岸で読まれた歌、

 東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる

ですね」

これには彼女も賛成してくれ、また一つ、話が盛り上がった。

ここまできたら、あとは口説くのみである。ぼくは自分の気持ちを佐々木さんに伝えた。

「恋しくて速まる胸のこの鼓動
 我の告白
 きみよ拒むな」

すると、佐々木さんが返歌をうたう。

「呆れたるきみの言葉に
 気がつけば
 ブレンド・コーヒーまだ冷めやらず」

どうやら、告白するのがはやすぎたようだ。しかし、ここでひるんではいけない。

「まれにある
 この恋する心には
 一刻のうちに永久が宿りし」

「言の葉を聞けば
 よろこぶわがこころ
 されどきみを信ずべきかな」

「我が瞳
 ひとつの曇りもあらざるに
 ためらう理由の
 いずこにあるや」

(以下、35首ほど省略)

という具合にして、最終的には新しい彼女を獲得した。

ぜひ、みんなも試してみて欲しい。


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2008/05/29

逆懐郷病

どうもこの頃、集中力がない。こうやってついついパソコンに向ってしまうのが何よりの証拠である。

これはきっと、五月病なんだと思う。五月というのは、人の心が不安定になるんだ。そうに違いない。それはなにも新しい環境に入った人がストレスや不安でそうなるというだけではなく、もっとこう、人間のバイオリズムに関わる部分がおかしくなるんだ。だから、二つの液体を混ぜたりする人が増えるんだ。

五月といえば、五月とメイがお父さんといっしょに田舎に引っ越し、あのかわいい怪物に出会った季節。きっと、彼女たちも心が不安定になったから、あんなふしぎな世界に入り込むことができたんだろう。きっとそうに違いない。

しかし、幸いにもあと数日でこの魔の月が終る。一安心である。そしたら、このメランコリックな気分も消え去り、ぼくの部屋のトトロも出て行ってくれるだろう。ただでさえ狭い部屋にこんなやつがいつまでも居座っていたのではめいわくで仕方がない。

けれど、できればムーミンにはいつまでも居て欲しいものである。彼は人当たりのいい性格で、むかしから、ぼくと気が合うようなのだ。たった一ヶ月弱で、ぼくらはむかしのように打ち解け合った。三年と少し前にぼくは流浪の生活をやめて大学に入り、それ以来、スナフキンという名を捨ててしまったのだが、彼だけはぼくをむかしのままにスナフキンと呼んでくれる。

友がぼくを呼ぶ懐かしい声に、在りし日の流浪の日々の記憶が蘇ってくる。あの頃ぼくは自由だった。街から街へ、人から人へ、山や川を越えてとどまることなく歩き続けていた。太陽と、雲と、草花がともだちだった。

エアフルトの宿で出会った娘は、今頃どうしているだろう? モディリアニの描く婦人のように神秘的な雰囲気をもった少女だった。ぼくらが教会にいったあと、丘の上で草笛を吹いていたら、ぼくの知らない男の子が彼女を呼びにきたけれど、いまではあの男の子と結婚しているのだろうか? こうやってむかしを懐かしんでいると、子どもを何人か生んで、たくましい腕でフライパンをもつ母親となった彼女を見てみたいような気持ちに駆られる。

ヨーロッパではいくつかの街で魔女や魔女の見習いにも出会った。何度かぼくも魔法を使いたいと思って教えて欲しいと頼んだけれど、やはり魔女の血をひく女性でないと無理らしく、ぼくはがっかりしたものだった。

五月になると、そんな出会いのつまった流浪の生活に、もう一度戻ってみたいなんて、思ってしまう。


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2008/05/31

NHKは諦めない

ぼくは、一度たりともNHKの受信料を払ったことがない。これは、ここに断言する。そして、今後も絶対に払う気はない。

なぜなら、テレビを持っていないからである。

そもそもテレビというものは人間の知性をすべて抜き去り、魂の抜け殻へと変貌させ、政府と財界の思い通りに国民を踊らせるための洗脳装置なのである。15分に一度コマーシャルという名の洗脳映像を流し、視聴者をことごとく資本主義の僕へと作り替える究極のウェポンなのだ!

おっと、テレビバッシングはこれくらいにして、NHKの受信料徴収の話をしよう。

ぼくは三年前に一人暮らしをはじめたのだけれど、その頃からずっと、定期的に、彼らはやってくる。ぼくがその度に「テレビは持ってません」と言うと、彼らはすごすご退散してゆくのだけれど、半年ほど経つとまたやってくる。きっと、彼らはこう考えているのだろう。

(前は持ってなかったけど、そろそろテレビ買ったかも‥‥‥)

しかし、そんな儚い期待を押しつぶすように、ぼくは頑としてテレビを買わずにいる。人々をして「テレビ買わざること山のごとし」と言わしめるほどに、ぼくはテレビを買わない。いつまで経っても、彼らの希望は現実にならないわけである。

「NHK受信料の件でおうかがいしたのですが」
「テレビ持ってませんので」

「NHKの者ですが、受信料の件でお訪ねしました」
「うちはテレビありませんから」

もはや、こんなやり取りを繰り返すこと三年。はじめは鬱陶しいとばかり思っていたが、最近は徴収にくるNHKの方がいくらか不憫に思えてきた。

なぜって、「あの家はそろそろテレビを買ったかもしれない」と思って、そんな一縷の望みにすがってわざわざぼくの部屋まで足を運んでくれるのである。何度断られても、またやってくるのである。けなげである。

もし徴収にくる人がおっさんではなく、若い女性だったら、ぼくは嘘をついて受信料を払ってしまったかもしれない。

「あの、NHKの者ですけど、今回も払ってくれないんですか?」
「ええ、テレビ持ってませんし」
「あたし、こんなに何回も来てるのに‥‥‥なんでよっ」
「いや、だって、ないものはないですから」
「ひどいわ。あたしの気持ちなんか、何も考えてくれてないのね」
「そ、それは‥‥‥」
「あたし、諦めないから。また、すぐ来るから」
「わ、わかったわかった! 払うよ! 受信してないけど払うよ!」

という具合である。女の涙にかかれば、どんな不合理だって、男は受け入れざるを得ないのだ。

けど、来るのはおっさんだから払わない。


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